魂の歓び

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はじめに

この本はもともと、サイイド(彼にアッラーの慈愛あれ)が、彼の姉であるアミーナ・クトゥブに宛てて書いた手紙である。チュニジアの『フィクル』誌が、4年目の第6号において、1959年3月、「遠くからの光」というタイトルで、当書簡を発表した

 この手紙に向けた要望が高まったとき、私たちは出版に着手した。強く偉大なアッラーからの受け入れへの希望に胸を膨らませて

慈愛深く慈愛あまねきアッラーの御名において

親愛なる姉へ…これらの考えは、貴女に向けて贈られたものである

死という概念は、未だあなたにとって不明瞭なままである。あなたはありとあらゆる場面で、またあらゆるものの裏側にそれを思い描き、人生や生命を支配する強い力であると見なす。それに比べて生は、怯え震える些細なものにすぎない。私もまた同じ瞬間を見ているが、あふれんばかりにほとばしる豊かな生の力に比べて、死はぼんやりとした貧弱なものにしか見えないのである。死は、ほとんど、ただ生の食卓からこぼれ落ちた食べかすを拾い集め、貪る程度のことしかしていない!…豊かな生の広がりは、まさにそれこそ私のすぐそばで躍動している!…万物は、沈滞せず、成長と繁栄に向かう…母は子を孕み、産む。人間も動物も同じことである。鳥や魚や虫たちは、卵を産み、生命を生のもとに咲かせる。大地は花や実をつける植物を芽吹かせ、点は雨にあふれ、海は波にあふれている。万物はこの地上において成長しつづけ、増殖していくのである

死は、突然(生に)噛みついて、すぐに逃げ去っていくことがある。あるいは、生のテーブルからこぼれ落ちたいくらかの食べかすを拾い集め、貪るためにしゃがみこむ!…生は、その道を進み続け、生き、ほとばしり、泡立つ。生は死を感じることも、またそれに目をやることも、ほとんどないのである

死がその身体に嚙みついたとき、生は痛みのあまり声をあげた。しかし、その傷の癒えることの、なんと速いことか。また、その痛みの叫びが喜びに変わることの、なんと速いことか…そして、人間が、動物が、鳥が、魚が、虫が、草木が、萌え出で、大地の表面に生と生命をもって広がる!…死は、そこに身を潜めていて、(時折)噛みついて逃げ去るのである…あるいは、生のテーブルからこぼれ落ちた食べかすを貪るために集める

太陽は昇り、また沈んでゆく。大地はその周りを回る。生命は、あちらこちらから現れる…万物は成長を続ける…数や種の成長、量や質の成長へ…もし、死が何かを作り出すことができたとしたら、生の広がりは止まるだろう…しかし死のそれは、生のあふれる力に比べれば、ぼんやりとした貧弱な力である。永世者たるアッラーのお力によって、生は現れ、広がっていくのである

 2

私たちが自分のためだけに生きるとき、私たちの人生は短く、小さく見える。人生は、私たちが意識を始めたところから始まる。そして、それは寿命の終わりとともに終わりを迎えるのである!…(一方)私たちが、私たち以外のもののために生きるとき、つまり私たちが目的意識をもって生きるとき、実に人生というものは、長く、深く思える。それは、人類が始まったときに始まり、そしてこの大地の表面から離れた後もなお、広がってゆくのである!…そのように生きた時、私たちは、私たちの年齢の数の倍、生きることが可能になる。私たちは、幻想ではなく、本当に、それを手に入れることができるのである。したがって、このように人生を考えることが、私たちの日々の、時の、一瞬一瞬の意識を膨らませるのである。また、人生は重ねた歳の数によるものではなく、情緒の数によるものである。また、現実主義者が幻想と呼ぶものは、最も正しい真実である。なぜならば、人生とは、それに対する人間の意識以外の何者でもないからである。試しに、人間から、彼の人生に対する意識を奪ってみなさい。あなたは、彼から本当の意味での人生を奪うことになる。人間は、人生が倍になったと感じるときは、本当に倍の生を生きるのである。私には、議論の必要もないほど、そのことが当たり前のことに思える!…私たちは、他者のために生きた時、同時に自分たちのために倍の人生を生きたことになるのである。また、他人に対する思いを増やせば増やすほど、自分の人生に対する意識も増えていくのである

悪の種は動揺するが、善の種は実を付ける。善の樹から光と空気を遮ろうと、前者はすぐに空き地に広がるが、土の中ではただ浅く根をはっているだけである。しかし、善の樹は、ゆっくりとした成長を続ける。なぜならその根の土の中での深さが、それにあたたかさと空気を与えるから…。悪の樹になるきらきらとした偽物の見せかけを無視して、それが真に持つ力と強さを調べたら、それが本当の強さではなく、もろく弱い中身のないものであるとわかった。その一方、善の樹は試練に耐え、嵐にも沈着を保ち、ゆっくりとした静かな成長を続け、悪の樹が細かな埃やトゲを投げつけてくるのも気にしない

 4

私たちが人間の魂の良い側面に接するとき、初めには気が付かなかった良さがたくさんあることに気が付く!…私はそのことを経験してきた。それを、私は多くの人との関係の中で経験した。たとえ初めは彼らを悪く、もしくは感情を持たない人のように思っても、彼らの誤りや愚かさに対して、少しの愛情があれば、また、彼らの悩み事に対して少しの気遣いがあれば―それはわざとらしいものではなく―、彼らの魂の中にある善の泉に気づいて、一方で彼らはあなたに愛と愛情と信頼を与え、そのかわりにあなたは彼らにあなたの魂から少し分け与える。これは同時に、あなたが彼らに、真実と、清澄、そして純正さを与えることでもある

実は、人間の魂において、悪というものは、私たちがしばしばそれを思い描くほどには深いものではない。それは、生き残りのために人間たちが戦いを挑んだあの硬い表皮の中にある。もし彼らが心から安心するときには、その硬い皮からは、官能的な甘い果実(本質)がさらけ出されるだろう。この甘い果実は、人々が安心を感じられる人のそばでさらけ出されるのである。愛情の中の信頼、彼らの戦いと痛みに対する、そして彼らの誤り、愚かさに対する真の慈愛によって…。初めに少しの寛容さがあれば、それがこれら全ての実現を保証してくれる。多くの人が予想するよりも、もっと簡単に…。私はそれを既に試した、身をもって試したのである。私はそれを、単なる幻想の、根も葉もない言葉として言ってきたのではない

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